夏目漱石のデビュー作「吾輩は猫である」についてです。
※こちらの記事はネタバレを含みますので要注意です。
■夏目漱石「吾輩は猫である」とはどんな小説?
夏目漱石のデビュー作「吾輩は猫である」は、明治38年(1905年)漱石が38歳の時に、髙浜虚子のすすめで書いた小説。
明治38年(1905年)1月1日に俳句雑誌「ホトトギス」にて掲載されたこの作品はもともと1篇のみで完結する予定だったが、発表後数多くのリクエストにより結局11篇まで執筆することに。
単行本は大倉書店、服部書店より上編が明治38年(1905年)10月6日に発行、「吾輩は猫である 中編」が1906年(明治39年)11月4日に、「吾輩は猫である 下編」が1907年(明治40年)5月19日発行。
また単行本の装丁(表紙、背、中扉、奥付)は樋口五葉、本文挿画は浅井忠、中村不折によるもの。
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
(夏目漱石 「吾輩は猫である」より引用)
普段全く本を読まない…という人でもここだけは知っている。というくらい有名な冒頭の文章ですね。
そして、「名前もない猫が語り手」という設定が、やっぱりこの作品の一番の特徴で、さらに数多くの漱石の生活の実体験が元になっているという点もも興味深いです。
ただ「吾輩は猫である」には主だったストーリーは存在せず、ずっと一人称で「吾輩」が色々な出来事を語っていくだけ。(強いて言えば、金田富子をめぐる恋愛騒動くらいか…)だけどそれが面白い!けど最初から最後まで読もうとするとかなり長いのでちょっと疲れますね。比較的文字が小さい手持ちの岩波文庫版でも515ページもあります。
「明暗」と同じくらいのボリューム。
パラパラめくって、適当に読む…というスタイルでも全然OKだと思います。
ちなみに最初漱石は、この小説のタイトルを「猫伝」とつけていたらしいのですが、髙浜虚子のアイデアにより、冒頭文から~ということで「吾輩は猫である」というタイトルに決定したらしいです。
■「吾輩は猫である」のあらすじ
まずは、数種類の参考文献に記載のあらすじを紹介します。
猫を語り手に苦沙弥・迷亭ら太平の逸民たちに滑稽と風刺を存分に演じさせ語らせたらこの小説の特徴は溢れるような言語の湧出と歯切れのいい文体にある。この豊かな小説言語の水脈を発見することで漱石は小説家の道を踏み出した。
(岩波文庫より引用)
中学教師苦沙弥先生の書斎に集まる明治の俗物紳士達の語る珍談・奇譚、小事件の数かずを、先生の家に迷いこんで飼われている猫の眼から風刺的に描いた、漱石最初の長編小説。江戸落語の笑いの文体と、英国の男性社交界の皮肉な雰囲気と、漱石の英文学の教養とが渾然一体となり、作者の饒舌の才能が遺憾なく発揮された、痛烈・愉快な文明批評の古典的快作である。(新潮文庫より引用)
文明中学の英語教師、珍野苦沙弥の家には、美学者の迷亭、哲学者の独仙、理学者の寒月、新体詩詩人の越智東風といった面々が行き来している。ある日、珍野家に住み着いた吾輩が、猫にしてはずば抜けた知能と観察力で彼らを描写していく。胃病で癲癇持ちの苦沙弥先生は大の金持ち嫌いだが、近所の西洋館に住む実業家の金田が自分の娘・富子の婿候補に断りもなく寒月を指名したことで一悶着が起こる。金田は金にものを言わせ苦沙弥
先生を攻撃するが、月給に縛られて生きている先生はこれに対抗する術を持たない。冷徹かつ明晰な吾輩の視線を通して描かれる人間社会の悲喜こもごも。
(エンサイクロペディア夏目漱石より引用)
主人公・語り手である「吾輩」と名乗る猫には最初から最後まで名前がありません。名付けようとするシーンすらなかったような…。
この「吾輩」による独自の視点で人間の生活が、時に風刺的に、そしてユーモラスに語られていきます。
・金田富子をめぐる恋愛騒動
・泥棒にはいられたこと
・近所の中学生、学校とのひと悶着
などなど…語られる内容は実に様々です。
「吾輩は猫である」第一章
有名な冒頭に始まり、捨てられた「吾輩」がなんとかたどり着いた先が珍野家。そしてそこで飼われるようになる。飼われることになるまでのやり取りは実際に起こったこととされている。
迷亭の訪問や、近所に住む車屋の黒(猫)とのやり取りが中心。
「吾輩は猫である」第二章
珍野家には様々な来客がある。1章でも登場した迷亭をはじめ寒月、東風などが訪問してくる。美貌の三毛子(猫)が登場するがまもなく体調不良により死去してしまい、吾輩の芽生えたばかりの淡い恋心は散ってしまう。
この章に登場する、吾輩が餅をたべて踊るようにもがくシーンも実際に起こったことらしい。
「吾輩は猫である」第三章
珍野家に実業家:金田の妻(鼻子)が訪れる。鼻子は高慢ちきで、寒月のことを苦沙弥や迷亭に見下すように問いただす。寒月が博士にならなければ娘の富子と結婚させないと言い張る。
苦沙弥や迷亭は鼻子が気に食わない…しかし、鼻子もそれは同様で、以後苦沙弥に嫌がらせをするようになる。
「吾輩は猫である」第四章
鈴木藤十郎が金田の使いで、珍野家に訪れる。
もちろん鼻子と同じ用向きで寒月の様子を探りに来る。実業嫌いな苦沙弥と、実業家の卵?である鈴木藤十郎の会話が面白い。
「吾輩は猫である」第五章
珍野家に泥棒が入る。(実際に当時漱石の家には何度も泥棒が入ったそうで、警察とのやり取りも実際にあったことがモデルとなっている。)一方、吾輩は元珍野家の書生である、多々良 三平に猫鍋にされそうになる。
「吾輩は猫である」第六章
珍野家に寒月、迷亭、東風が勢揃いし、それぞれの恋愛模様について語る。またここでの迷亭の蕎麦談義が良いですね。
「吾輩は猫である」第七章
吾輩は家の周りの竹垣や木を利用し運動をする。そして、公衆浴場をのぞき見し、20世紀のアダムと評す。
「吾輩は猫である」第八章
珍野家のすぐ隣にある落雲館中学校の生徒が、何度も何度も庭に野球ボールを打ち込んでくる。苦沙弥はそれに怒り、生徒、学校に対して猛抗議する。
そして、珍野家に八木 独仙が訪れ、ぷんぷんしている苦沙弥を哲学的に?説得する。
「吾輩は猫である」第九章
吾輩が主人である苦沙弥のあばた面に対して物申す。(実際に漱石の右頬にはあばたが残っていたとされている)また、迷亭の伯父である牧山が珍野宅を訪れる。
「吾輩は猫である」第十章
苦沙弥の姪、女学生である雪江が珍野家を訪れ、その後に苦沙弥の教え子である毬栗頭の古井 武右衛門(ふるい ぶえもん)が金田富子に恋文を送ったとして、退校処分にならないかと心配して苦沙弥宅を訪れる。苦沙弥は始終冷たい対応。
「吾輩は猫である」第十一章
珍野家に独仙、迷亭、寒月、東風が集まり様々な話が展開される。そして多々良 三平も加わり宴会となる。その後、来客が帰ったあと、吾輩はくさくさした気分で飲み残しのビールを飲んでしまい酔っぱらう。そして、水甕のなかに転落して溺死してしまう。
■「吾輩は猫である」の登場人物
「吾輩は猫である」には、語り手の「吾輩」はじめ個性豊かな登場人物がたくさん出てきます。
・吾輩
語り手。捨てられたが、珍野家で飼われるようになった雄猫。
名前はない。猫ながらあらゆる知識を持ち、人間の生活にも精通している。
(実在した猫がモデル)
・珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)
吾輩の飼い主。中学の英語教師。
胃が弱く、偏屈な性格で実業家嫌い。漱石自身がモデルとされている。
・迷亭(めいてい)
苦沙弥の友人、美学者。
名前の通り、いつも酩酊(めいてい)しているような人柄で、ホラ話で人をかついで楽しむのが趣味。(大塚保治がモデルともいわれるが漱石は否定)
・水島寒月(みずしまかんげつ)
苦沙弥の元教え子。卒業後に理学者になる。
(寺田寅彦がモデルといわれる)
・越智東風(おちとうふう→おちこち)
詩人で、寒月の友人。
本人は自分の名前は「とうふう」ではなく、あくまで「おち こち」と訓読することを主張している。
・八木独仙(やぎ どくせん)
苦沙弥先生の同窓。
ヤギヒゲが特徴の哲学者然とした人物で、耳に触りのいいいかにもな『東洋流 消極的の修養』論と禅語を振りかざしている。
・金田
実業家。苦沙弥を嫌い、色んな嫌がらせを企てる。
・金田鼻子
↑の妻。大きな鼻が特徴で「鼻子」は吾輩が命名。高慢ちきで苦沙弥を嫌う。
・金田富子
金田家のご令嬢。ワガママな性格。寒月君との縁談話があるが…
・鈴木 藤十郎(すずき とうじゅうろう)
学生時代に苦沙弥先生たちと同じ釜の飯を食っていた、かつての仲間。
やり手の実業家で金田の指示で探りを入れてくる。
・三毛子
二弦琴のお師匠さんちの三毛子(みけこ)。夭折の美少女猫。
・黒
隣の車屋に住むべらんめえ口調の江戸っ子な猫。いわゆるボス猫。
■「吾輩は猫である」に関する豆知識
ここでは「吾輩は猫である」をより深く楽しむために豆知識的なものを紹介したいと思います。
「吾輩は猫である」の珍野家について
(画像引用元:「漱石の思い出P155」夏目鏡子述、松岡譲筆録)
上記の画像は、「漱石の思い出」夏目鏡子述、松岡譲筆録に掲載されている、「吾輩は猫である」を執筆していた当時、夏目漱石が住んでいた本郷にあった家の見取り図です。
小説中に出てくる珍野家は、「崩れた黒塀のうち」、「屋根に草が生えたうち」などなど金子夫妻からかなりの言われようですが、画像の家がモデルであるということは間違いないようです。小説中と全く同じであるかは、もう少し詳しく照らし合わせてみないとわかりませんが…。
三毛子が飼われていた二弦琴の師匠さんの家もあり、黒がいる車屋もあり、中学も実際にすぐ隣にあったようですね。
「吾輩は猫である」の猫のモデルについて
漱石一家が暮らしていた千駄木の家を、産まれて間もない子猫が訪れるようになる。
妻の鏡子は猫嫌いだったので、見かける度に追い出しにかかっていたのですが、漱石はふと家に上がった猫を見て「この家が気に入ったのだろう。置いてやったらいいじゃないか」と言ったそうです。(参考:漱石の思い出より)※この逸話は「吾輩は猫である」の1章に登場。
それ以来、猫嫌いな鏡子に疎ましがられながらも、すっかり漱石の家に居着いた猫。居ついたとはいえ、名前は死ぬまでずっとなかったみたい。知人からもらったとされる犬には「ヘクトー」という名前をちゃんと付けていたのに…。
住み着いたばかりのころはけっこう邪険に扱われていたみたいですが、ある日、あんま(マッサージ師)のおばあさんが猫を見るや鏡子に「この猫は福猫ですよ。爪の裏が真っ黒。追い出さないで、飼っていらっしゃい。」とアドバイスをしました。
爪の裏まで黒い猫は魔除けになると今も信じられている。別名を烏猫といい、江戸時代には宝暦・明和ごろから、恋煩い、気鬱症、労咳、衰弱症などで参っているもののそばにおくと、全快のまじないになるといわれた。(引用:「漱石先生ぞな、もしP115」半藤一利)
以来、鏡子の猫に対する態度も一変(笑)それなりに良い待遇をするようになったらしい。でも相変わらず名無し…。とりあえず「猫、猫」と呼んでいたらしい。
ちなみに、第二章に吾輩がお雑煮のお餅を食べて、歯にくっついてしまい、何とか取ろうともがき、踊るシーンがありますが、これは実際にあった話のようで、夏目鏡子の「漱石の思い出」にも、以下とある。
お正月の三日に私が台所に出てみると、猫が子供の食べ残しのお雑煮の餅をたべて、しきりに前足でもがきながら踊りをおどっております。女中たちとそれを見て、あんまりいやしん坊をするからと笑っておりますと、ちゃんとそれを聞いていて「猫」の中に書いてしまいました。(引用:「漱石の思い出P160」夏目鏡子述、松岡譲筆録)
結局、西方町へ引っ越した時も、早稲田南町へ引っ越した時も、紙くず箱の中に入れられてお供をすることになったことから、ちゃんと「飼っている」という認識は夏目家にはあったんだろうな…。
猫の墓について
そんな猫も、明治41年(1908)9月13日に亡くなってしまう。早稲田南町へ引っ越したあたりから急に体調がすぐれなくなったらしい。
猫の遺骸は、木箱に入れて漱石の書斎の北側の裏庭に埋められ、妻の鏡子に「何か書いてやってください」と頼まれた漱石は、一句までしたためた。
「此(こ)の下に稲妻起る宵あらん」
翌日、漱石は門弟や友人、知人に向けて、次のような文面の葉書まで書いている。
「辱知猫義久々病気のところ療養相叶わず昨夜いつの間にか裏の物置のヘッツイの上にて逝去致候。埋葬の義は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但主人「三四郎」執筆中につき御会葬には及び申さず候。以上」
鏡子も鏡子で、命日がくると、猫の墓標の前に、鮭の切身一片と鰹節一椀を供えたという。
その後、文鳥が死んだ際も同じところに、犬のヘクトーが死んだ際も同じところに、埋めたらしい。しかも漱石は飼い犬のヘクトーがなくなってしまった際にも、
「秋風の聞こえぬ土に埋めてやりぬ」
という句をしたためている。
あまり詳しくは知らないけれど、漱石と犬…というのがうまく想像がつかない。「猫」のイメージが強すぎるせいだろう。。
そして、猫の十三回忌(大正9年、1920年)の際に、夏目家で買われていた生き物を供養するため、九層の石塔を建てることに。その図面を松岡譲(漱石の長女:筆子の夫)が作成し、その石塔の石台には津田清風の筆で、「文鳥」、「猫」、「犬」が三尊式に描かれていたらしい。
しかし残念ながら、昭和20年(1945年)5月25日の大空襲により、その石塔は跡形もなくなってしまった。今、早稲田にある漱石公園にある石塔は昭和28年(1953年)に再興されたものであるらしい。
(新宿区立漱石公園にて撮影)
「吾輩は猫である」にでてくる気になるスイーツ、お菓子
大量のジャムを舐めるくらい、大の甘党だった夏目漱石。「吾輩は猫である」にも印象的なお菓子が出てきますね。
銀座「空也」の空也餅
主人はまたやられたと思いながら何も云わずに空也餅を頬張って口をもごもごいわしている。(~)「こりゃ面白い」と迷亭も空也餅を頬張る。
(引用元:夏目漱石「吾輩は猫である」岩波文庫版 第二章より)
夏目漱石自身も通ったとされている、東京:銀座にある老舗和菓子店の「空也」。すぐに売り切れてしまい、予約でしかほとんど買うことができないという人気の「空也最中」がとても有名ですね。
とは言え本編中に出てくるのは「空也餅」のほう。人気ではあるが「空也最中」は通年食べられるのに比べて、「空也餅」のほうは夏場には作れないため例年11月いっぱい、そして1月半ばから2月半ばまでの2回しか販売されないらしい。。。しかも、1日200個が限界らしいです。
まだ、筆者は「空也最中」はもちろん「空也餅」も食せていません。漱石山房記念館のカフェで食べれば良かったと激しく後悔しています…。
日暮里「羽二重団子」の羽二重団子(はぶたえだんご)
「行きましょう。上野にしますか。芋坂へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん一返行って食って御覧。柔らかくて安いです。酒も飲ませます」
(引用元:夏目漱石「吾輩は猫である」岩波文庫版 第五章より)
羽二重団子本店は、リニューアルオープンの改装のため、休業となっていましたが、2019年5月18日についにリニューアルオープンしたそうです。
江戸時代の文政2年(1819年)の創業からなんと200年の老舗…。
しかもメニューには、
・子規セット(正岡子規)
・天心セット(岡倉天心)
・漱石セット(夏目漱石)
などなど、胸が震えるセットがあるらしい…。
■「吾輩は猫である」名言
呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。
(引用元:夏目漱石「吾輩は猫である」岩波文庫版 第十一章より)
本編のラスト近くに登場する言葉。ちょっと気がくさくさしてきた「吾輩」が放つ。その後、ビールを飲んで~…。
金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないというのさ―義理をかく、人情をかく、恥をかくこれで三角になるそうだ面白いじゃないかアハハハハ
(引用元:夏目漱石「吾輩は猫である」岩波文庫版 第四章より)
金田夫妻の画策により訪れた鈴木藤十郎と苦沙弥先生の間で交わされる、「実業家について」の話のお途中にでてくる。↑は、実業家が大嫌いと豪語する苦沙弥先生に対して、鈴木藤十郎が発する言葉。
■「吾輩は猫である」の個人的な感想
長い!ちゃんと読んでみると「吾輩は猫である」はとても長い小説だった。冒頭でも述べたけど、岩波文庫版でも515ページもある…。
本当のことを言うと、最初から最後まで読み通したことがなくて、今回ちゃんと本腰を入れて読んでみた。とてもとても有名な夏目漱石の作品だけど、初めて読むには適さないよな…と改めて感じた。
親しみもあって全体的には読みやすいのだけど、冗長なってるところはあると思うし、文体が漢文調の箇所も多く、読んでいて若干疲れてしまうというのが正直なところ。
でも「吾輩」のシニカルな感じは好きだし、迷亭君も相変わらずの適当っぷりで思わずニヤニヤしてしまうことも多々あった。
個人的に、鼻子が珍野家に来た時に、寒月君のことを色々詮索しに来るシーンで、寒月君の研究題目が「団栗(どんぐり)のスタビリチー」というところがツボだった(笑)
(※国分寺のジョルジュサンクで読んでいた時に、思わず吹いてしまった。きっと近くにいた人は不審に思っただろうな)
ちょっと退屈に感じることはあるけれど、やっぱり面白かった。
とりあえず、1回読んで、あとは気に入ったところをペラペラめくって読むのが良いのではないか…と思ったりもしました。もちろん僕のように逆でも良いと思う。
あと、ラストはやっぱりもの悲しくなる。あんなに生き生きと描写してくれていた「吾輩」が、「あーあ…死んじゃった」なんて少しむなしく感じてしまう。
でも、その直前の「吾輩」が酔っぱらってしまった時の描写がぼくはとても好きだ。
それから暫くの間は自分で自分の動静を伺うため、じっとすくんでいた。次第にからだが暖かになる。眼のふちがぽうっとする。耳がほてる。歌がうたいたくなる。猫じゃ猫じゃが踊りたくなる。主人も迷亭も独仙も糞を食えという気になる。金田のじいさんを引掻いてやりたくなる。妻君の鼻を食い欠きたくなる。色々になる。最後にふらふらと立ちたくなる。起たったらよたよたあるきたくなる。こいつは面白いとそとへ出たくなる。出ると御月様今晩はと挨拶したくなる。どうも愉快だ。
(引用元:夏目漱石「吾輩は猫である」岩波文庫版 第十一章より)
うん。特に「御月様今晩はと挨拶したくなる。どうも愉快だ。」が最高。